昭和47年10月21日 朝の御理解
御理解 第95節
『世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ、神を商法にしてはならぬぞ。』
確かに御道の信心はそう言う所は無い様に思います、お供えを是だけしなければお拝んであげないとか、お取次ぎをしてあげないとか、それこそ氏子の真心さえあれば木の葉一枚でも神が受けると仰る、又はそう言う神様なのですから、それを取次がせて貰う者もやはりそうでなからなければならない、神様はお供えをしなければならん、お金を出さなければお取次ぎが願えないとか、言うなら拝んで貰えないと言う事はない。
またそれで氏子に、ただし真心があれば、木の葉一枚でもと言うのが神様の御心なのですから、取次ぎをさして頂く物も、やはり神様の御心で取次ぎをさせてもらわなくてはならないと。まあ私共は何時も心に思わせて頂きたいと思います。またそれでおかげを受けるのですですから、その今迄まあ普通神社仏閣あたりでも、その色んなお札一枚がいくらと言うふうに決まっているのは、言うなら神を売る様な言うなら商売と同んなし一緒と言った感じが致しますですねえ。
それには取次者の真心も何にもないね。言うならばお葬式の為にある宗教であったり、ただ型式だけを重んずる、宗教があったりするとするならばです、それは言うならその宗教自体が立たなければならない為に、どうしても商売の様な事になって来る。金光様の御信心は、言うならば神のおかげで教会も建てば、人も助かって行くんで御座居ますから、私共はそう言う心を挟む事は一つもいらん。
そう言う心配はする事はいらない、所が私共の信心の内容と言うか、自分の心の状態と言う物を、何時も見極めさせて頂いておると成程、商売にはしてはいないのだと思うけれども、商売にしておる様な事がある様な気がするんです。昨日はあの様に盛大に、五年のいわば記念祭が盛大に賑やかに奉仕されました。皆さんから沢山の祝詞を受けました、お目出とう御座いますお目出とう御座いますと言う訳です。
もう何時もの大祭でしたら何と言うでしょうかね、有難いと言うだけでなく心浮き浮きと言う様うなものもあります。昨日ばかりは眼をつぶって金光様を唱えれば御神前に出れば出る程、心は暗く心は重うなって行くんです。どうした事だろう、是程しの言うならば、お広前が割れんばかりの盛大なお祭りを頂いてもろうてね、どうして私し中心である所の私の心がこんなに重いのだろうかと思わせて頂く、そして気付かせて頂いた事は 言うならば内容が無いからだと言う事です。
内容がないと云う訳ではない、まあ言うならば、普通の御大祭は私の信心の内容がそれがそのまま大祭に表れておると言う様な感じ、耳入らんですか、耳入らんですかこれからこっちは。まあ何時も通りの大祭であっても実を言ったら内容なしにあれだけのおかげを受けておる、厳密に言うたらそうですけれども、大たいに於いて私の信心があの様な参拝とかお供えとかと言った様な物をです、私の信心なりなものを感ずる訳なんですね。所が昨日はね心が重くなると言う事はやはり信心の内容がないからだと。
自分で私反省させて頂いた、まあその事を神様にお詫びをさせて頂き、まあ普通で言うならば先生方の御直会場で、そして又皆さんと一緒に御直会でも頂いとったら、ついつい神酒も過ごさせて頂いて機嫌良うならせて頂くんですけれども、昨日ばかりは全然機嫌良うなれなかった言うなら酔えなかった。ですからまあ最後まで講師であります先生が残っておられましたから、私があの例えば先生をお送すると言った様な事は先ずなかった、ま兎に角明日改まってお礼に出ますからと私が一番素面の様うだったから。
ですから私はお送りした様な訳ですけどもそんな風でですね、言うならば酔えなかっった、お酒いただいても。それは自分の心の中に心が重いから、心が暗いから、なぜ心が暗いか、心が重いか、本当言うたら昨日はあれ程しのおかげを頂いておるのだから、心浮浮きでなからなければならないはずだ。神様のおかげに言わば感激しなければならないのだ、所がそれに反して、私の心が愈々暗くなる愈々重くなるとは、どの様な事だろうか、どうした事で有ろうかと思った。
そしたら結局私自身の信心の内容がないのに、ま、言うならば千斤なら千斤しか持ってない私がです、言うなら一万斤も持たせて頂いておる様な気がする だからもう心がへとへとである。力の無い者が力以上の事をする時にそれを私は感ずるんだと思んです。ですからやはりまあ言うならばミスと申しましょうかねえ、もうーあれ程前々からミスがない様にミスが無い様にと、言いながらです、もう言うならば私が感じただけでも、ま沢山なミスがあった様に思えるんです。
例えて申しますと、親先生はこの頃あの胃腸がお弱いですから私は親先生に今度親先生の為に“座椅子”を買っておった準備してあった、それをもうころっと忘れてしもうた最後の直会の時に、行徳先生少し酔われた様だから座椅子をあげぇ初めて思い出した はぁつ“座椅子”があったじゃないか“座椅子”をあげようと言って調べにやった所、何処になおしてあるか分からない、なおし込んでしまってと言う様な事であった。もう一番のミスはあの引き物の折りが全然出来ていなかったと云う事。
大変なミスであった。だから其処はです其処は、それなりに私は実は有難いんです、是はこれからの、合楽の生き方の中には、例えば、折詰のお土産など、ことずける様な事は、もう今度を堺に内だけもうするまいと、言う様な気持ちすら起きて来た“座椅子”がないならないでそれはそれなりにおかげだと、おかげだと思うんです。してみるとなら、ミスはまたミスなりに、おかげだと言う事になるんですけど。そんなら今迄かってない、言うならば、大きなミスであった。
結局私自身の信心の力不足と言う物が、此の様な事になって来たと言う訳なんですから、其処でなら内容であると言う事だけは分かった。あれ程の御大祭を奉仕させて頂いて、そんなに心が暗く成るのか重く成るのか、反対に心はウキウキ嬉しゆう喜ばしゆうならなければいけんのに、反対に心が重う成ったり暗く成るのはどうした事か。それは私自身の信心の内容がないからだと言う事に気が付いた。
例えて申しますと普通には、あげない大祭案内などもあげる、普通は配らない所でも案内を配る、ですから、ある意味に於いて合楽の信心、合楽の信心と信心を求めて 又は日頃頂いておる神恩報謝の心が、昨日参拝した全ての心の中にあったとはもちろん言えない、言うならばお付き合いである、言うならば案内を受けたから来たのである。是が此処での本当の御信者であるならば案内を受け様うが受けまいが、是はやむにやまれぬ思いで御大祭を拝ませてもらおう。
御用もさして頂こうと言う風に成るのでしょうけども、案内が無いから来てないと言うのはあって良かろうはずがないのだけれども、案内が来ておるから参ろう、又は合楽で見事な御普請が出けたげなから、西脇殿の御造営が出来たげなから、一遍見げ行こうかと言う様な人達が沢山集まっておったと、言う事がです、愈々私の心を暗くしたのだ重くしたのだと気が付いた。
してみるとです例えば今日の御理解から引用させてもらうならば、神を商法にしてはならないとおっしゃるのに、そう言う宣伝までして、んなら信者が信者でもない人が、なら合楽に集まって来るそれはもちろん神様の御比礼ですけれども、これは取次者教会長私自身としてはです、本当にお参りを頂いて有り難う御座いましたと言う事になるのです。丁度商品を売っておるところに買ってもらった、どうも有り難う御座いましたどうぞと言う様な事になるのです。
是が信心でお参りしているなら いやおかげ頂いたと、是だけでいいのです おかげ頂ましたおかげ頂いたで良いのだけれども昨日のばかりはそうはいきません どうもご遠方の所をお参り頂まして有難う御座いましたと言う事になる。してみると私は商法と同じ様な事がです、昨日の合楽の記念祭の中にあったと言う事、それは私の信心の内容。例えば甘木あたりの今でもそうでしょうけれども、初代がおられた頃の御大祭と言やあ二日間ですかね―続けて御座いました。
それこそ甘木の町が沸きかえる様な御比礼であったそうです。ね、んならそうして沢山の人達がお参りするけれどもお弁当一つお出しにならんのです。甘木は只信心を頂たい本当に信心を言はば甘木の先生を拝みたいと言う信者で甘木を埋め尽くしたと言う事です、 こちらの場合はそうじゃない御案内をして云うなら、参って来てもろとるのじゃからそれに対してお弁当の一つも差し上げにゃと言う様な事になって来ておる。
本当に内容を持たないと言う事は実に残念な事だと思います さあそんなら帰りにお神酒を頂くと云うても、もー決して甘木あたりでは、お杯き等では頂だかん、帰りがけにこうして手を出して、手のひらにこうしてお神酒を頂いた、それを篤信の人達なんかは、ちり紙を出して頂いたのを少しあとの余りをちり紙に吸はせてそれを頂いて帰って、家でそれを又頂かせると言った様な事だつた
もう本当に信心をもっての皆んなの集まりですから、只今もうします様にお参りしてもろうて有難う御座いますなんて無くてです、いやおかげ頂いたなあーと言う信心ばかりで集まっていたと言う事を私は感じるのです。合楽の場合も、是は段々本気で一つおかげを頂いて、是は合楽でない私自身の信心がもっともっっと内容を持った信心に成らせて頂かなければならないなと言う事で御座います。
内容がないと言う事はきついです、言うならば借金を負いかぶっており乍らです、良い着物を着たり良い物を食べたりする事は大変きつい事です 自分の持っておる例えばお金で範囲内で着物を買ったり美味しい物を食べたりするならば一つも腹はいたまん唯有難いばかりでしょう。この着物を借金して買うたと思ったら、着てさあ見かけはきらびやかにしておるかも知れん、
昨日の御大祭なんか、もう実にきらびやかなものでした、けれども是は教会長、私自身としてはです、唯神様が言うなら、ただ顔を立てて下さったと言う事だけ あんな大きな会堂が出来たから、やはりその会堂にもやっぱり人をもって埋めて下さった、と言う事は神様が内容は無いけれども、そう言う信心も無いお付き合いの人達までも、集めて賑やかして下さったと言うだけのほかは無いのです。
是は椛目合楽を通して何時も感じた事でしたけれどもお広前が広うなると広うなっただけ、やはりお参りはそれだけでしたでしたね 例えば椛目のあの狭いお広前の時にも勿論一っぱいでしが、此処え来らせて頂いて、あれは開教式ですか、やっぱり此処も一杯でした。それは受物が出けるから受物が出けるからおかげを受けた、と言う事が言えるのですけれども、其処には内容のない私の信心、言うならば本当の信心を求めて来ると言うのではなくて、昨日の場合で言うならば来賓の方々がそうです。
所が段々おかげ頂いて参りましてです、一年たち二年三年たつ内に言うなら御大祭となるとやはり合楽の信心を頂いておると言った人達ばっかりで此処が一杯になる様になった。昨日の場合は合楽の信心を頂いておると云うのではなくて、お付き合いで参って来た方達によって一杯であった、其処で本当の内容信心の力と言うものを頂いて、言うなら此の次ぎには又その次ぎにはです。それがお付き合いではない人達に依って、此処の広前が一杯になるおかげを頂いた時こそ、言うなら力が出けたと言う時ではなかろうか。
その時こそ商法でではない、お参りして頂いて有難う御座いました、と言うのでなくておかげ頂きましたなと言えれる時だと言う風に思えるのです。其処でですなら昨日のお祭りを堺に私の心は、ならその力を内容を頂かなければならない云う事を言うなら、思い考え続けさせて頂いておる、言うなら五年後に仕えられるであろう十年の記念祭に果たして、私が居るかどうか解らないけれども、その時にはもちっと増な記念祭でなからなければならないともう言うならば五年先の記念祭の事が思われておる訳であります。
その時には愈々盛大ちゅう事でなくて内容を頂いて内容にふさわしい御大祭を奉仕しなければならないと言うので御座います。昨日の御大祭はだから今日のご理解を頂きますと言うならば、神を商法にしてはならんとおおせられるのにもかかわらず、商法にしておった様な物を何かそらぞらしいものと言うか、それが私の心を暗くした心を重くしたんだと言う風に思うんです。
その事を私、今朝神様にねお詫び、又はお礼申させて頂いとりましたら、あのテレビのコマーシャルのジョウワジョウワ誰のものと、歌を歌っていたものが御座いましたね、ジョウワ ジョウワ誰のものと言う様な歌があります。私それを頂いて始めてジョウと言う事は情と言う事、情言うなら心 是はもう私共のものと言うのは何にもない、言うならば一切のものが神様の御物であり肉体も言うなら神様のお体だと同じだと。
けれどもね、是は心だけは、言うなら心だけは誰のものかと言われた時に心だけは自分の物だと云う事を気付かせて頂いた。有るやら無いやら分からん心です、けど有る事だけは間違いがない 自分の物と言うならばその心だけだからこそ、おかげは我が心にありと教えられた あらぁ今日は昨日のお粗末御無礼がこう言う大変な事を教えて頂いたと思ってね、今度はね改めてね心が有難うなって来た。
情は情は誰のもの、例えばそれを、それはどう言う意味かは知らないです、けれども私はそれを情は誰のものか、言うなら心は誰のものか、ね。子供のものでもなければ親のものでもない、情だけは言うならば神様に頂いておるもの 完全にだから私の物。その、なら私のものは他はなんにも無い、それこそ無一文の中の私なんだけれども、心だけは私のもの、その心一つでおかげを受けて行くと言う金光様の御信心。ね。
私共が様様な事を直面する、例えば昨日御大祭なら御大祭を拝ませて頂いて御大祭を通して、例えば私自身の力不足を感じさせてもらい、内容のない事内容のまずしい事を感じさせてもらい改めて気付かせて頂いて、そこから又言うならば神を商法にすると言った様な物ではなくて、言うなら教祖金光大神御立前である所の、真心一つでと言われる、いわば信心をです愈々頂かねばならない。
その証拠にはもう粗末にしたら自分の心と言う物は、もう何処どこまでも落ちて行く、何処どこまでも汚れ果てて行く、自分の物だからです。ね。だから自分が少し心の方へ見つめさせて頂いて、是じゃいかんと思うて改まらせてもろうて、是じゃいかんと思うて磨かせてもらい、本気で心に取組ませて頂くと、光り輝いて来る自分の心を自分で拝みたい心が生まれて来る、そう言う心におかげがあると。
成程自分の心に自分の心、心だけは自分のもの、おかげが有るも無きも我が心、あの我が心と言うのは和ぎ賀ぶ心と我の心との二た通りありますよね、今言うておるのは我れの心と言う意味です、おかげの有るも無きも我が心と言うのは自分の心と言う事です。成程是は愈々自分の心は自分の物だから自分が粗末にしてはいけない事が分かるじゃないですか。自分の物だからもっともっと大事にしなければいけない。
もっと光りかがやく物にしなくてはならない、その光りかがやく物にならせて頂いたら、其処には期せずして頂けるのがおかげなんです。いわゆるおかげは我が心にありと言う事。今日の九十五節からの御理解から少し意味が違う様ですけれども、私は昨日の御大祭は、まあ或る意味で商の様な物だと私は思うんです、どうですあのきらびやかなあの吉備舞のねあの雰囲気なんか、それこそ信心が無い者でも、有る者でもただただ素晴らしいと思っうたでしょう。
言うならば金取って言わば見せておる様なものですして見るとです、是はね商の様だと言うならやっぱり商売の様だと言う事になるのじゃないでしょうか。本当に愈々自分と言うものを本気で見極めさせ、自分の内容を一段と高めて行く、それは自分の者なのだから、心は自分の者だからもっと大事にしなければいけません、もっと本気で光り輝くものにして行く精進をしなければならないと言う事を、改めてです感じるので御座います。
どうぞ。